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ワーキングメモリはいかにして意識的なふるまいを生じさせるのか?4

実験する前にふり返る

 ヒトの脳はいくつかのパーツでできている。

 ワーキングメモリはそうした複数のパーツから情報を受け取る「収束ゾーン」として存在していて、位置づけ上、情報の集約が可能になっている。

 イメージとしては、下の図のような感じになっていると思ってもらってよい。

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 ワーキングメモリはそれなりに大きなスペースをもった情報の格納場所で、これが働くことで意識が(少なくとも意識的なふるまいが)生まれている。

 当初の目的に立ち返ってみると、今回の話はその関係を明確にすることだった。

 今回はそれを、「たとえ話ができるかできないか」という基準にしたがって確かめようとしている。

 いよいよ準備が整ったので、その確認作業に入っていきたいと思う。

やってみよう

 「架空と現実を区別する」というのが、今回の実験のタスクになる。

 ワーキングメモリをもったモデルとワーキングメモリをもっていないモデルにこの分類タスクを課した場合、その成績にどの程度の差が生じるのかを見てみることにする。

問題設定

 実験に先立って、モデルが解くべきタスクをもう少し明白にしておく必要がある。

 最終的に「架空」か「現実」かを区別すればよいので、答えは2択になる。

 一方の、何をもとに判断するのかという点についてはさまざまな可能性が考えられる(ワーキングメモリが入力値として何を受け取るのかによる)が、その判断に最低限必要なものを挙げておく必要がある。

われわれは普段、何を基準にして架空と現実を区別しているのだろう?

 モデルへの入力値を考えるにあたって、明白にしておかなければならないのはまず、この点だ。

 われわれは普段、何を基準にして架空と現実を区別しているのか?

 どこかにその境界を設けているはずだが、普段無自覚的に区別し過ぎていて、区別しているという感覚はほとんどない。

 ただ確実に言えるのは、出来事や誰かが話した内容についてほとんどの人はまずその「表面上の意味」と「裏の意味」を考えているということだ。

 何かを見たり聞いたりした時に、人は普通それを見たままには受け取らない。

 リンゴに見えるものはリンゴではないかもしれないし、おいしい話には大体裏がある。

 事の真相を見極めるために、ヒトは普通見たり聞いたりしたものに対する判断を保留する(Aに見えたものをAだと即断することは普通しない)。

 この判断保留状態を作ることが架空/現実判断の契機になっているというのはあるだろう。

 反射的に反応する生物には当然、この判断留保状態が存在していない。

 そう考えると、判断保留の状態を作るということ自体、意識の機能のひとつとして考えてもいいのかも知れない。

 今回の実験では人が何かを見たり聞いたりしてそれが何であるかを判断する時にしている「表面上の意味」と「裏の意味」を考えるという行為を取り上げ、その事前判断のなかで正しく架空/現実を区別できているかを判断材料とする。

 

今日はここまで。

ワーキングメモリはいかにして意識的なふるまいを生じさせるのか?3

意識的であるかどうかをどうやって判断するか

「たとえ話」をするのは人間の特権だという話を前回した。

架空の何かを想定するのはヒトだけで、それ以外の生物には「仮に」という選択肢はない、と。

もしそうだとすれば、「たとえ話」ができるかどうかということが意識的であるかどうかを判断する基準になるはずだ。

ヒトはなぜたとえ話ができるのか?

当たり前すぎて普段は気にもしないが、実はたとえ話ができるということは当たり前のことではない。

生物のなかで、ヒトだけがそれをできる。

ヒトはどうしてたとえ話ができるのか?

われわれは普段、何気なく(ほとんど雰囲気で)たとえ話とたとえ話ではない話を使い分けている。

別に、「今からたとえ話を始めますよー」と断ってからたとえ話をしているわけではないし、「これは本当の話だけど」と、現実の話をする時にあえてそれを強調したりもしていない。

感覚的に架空と現実を区別している。

あまりに自然にそれをやり過ぎていて、会話を始める前からそれが作り話っぽいか本当の話っぽいかを判断していることに気づいていないだけだ。

けれど、どんな話の時にも無自覚的にその判断が先行してしているということが、実は意識的なふるまいの前提条件になっている。

会話をする時に、それに先立つこの判断が介在していなかったとすれば、皮肉も冗談も言えない(すべての言葉は額面どおりに捉えられてしまうことになる)。

 

激烈に短いが、今日はここまで。

ワーキングメモリはいかにして意識的なふるまいを生じさせるのか?2

前回の続き。

意識とは何か?

意識とは何かという問題について、真っ向から答えようとすると大変なので今はしない。

それならそんな問題提起をするなと言われそうだが、答えるのが大変な問題であっても、提起しないというわけにはいかない。

それについて話そうと思っているのだから、それが何であるか正しく答えることはできなくてもそれを定義しておく必要はある。

意識とは何か?

ここではそれを、「意識的なふるまいをするものがもつ特性」と定義しておこうと思う。

「意識とは意識的なふるまいをするものがもつ何かである」という定義は完全に循環論法的で、そんな定義をすることには何の意味もないように思える。

けれど、そう定義することは完全に無駄な行為というわけでもない。

少なくともそう宣言することで、「意識的なふるまい」を意識の徴標として取り扱うことができるようになるからだ。

問題を先送りすることができるうえに問題解決の手がかりも得られるなら、無駄な行為も無駄ではない。

意識があるものと意識がないもの

ヒトだけが意識をもつとする。

もしかしたらヒト以外の生物も意識をもっているかも知れないが、とりあえずここではそう考える。

意識とはヒトだけがもつ固有の特性である、と。

もしそうだとすれば、意識はヒトとヒト以外の生物の差異として抽出されることになる。

それでは、その差異とは何か?

ヒトと、ヒト以外の生物は何が違うのか?

差異は星の数ほどあって、数え上げていくとキリがないが、意識は認知に作用する何かであるか、あるいは認知の特殊な様態なので、認知周りに限って考えることにする。

ヒトの認知とヒト以外の生物の認知の何が違うのか?

ヒトとヒト以外の生物の違いのひとつとしてよく挙げられる特徴のひとつに、「言語の使用」というものがある。

認知絡みでのヒトとそれ以外の生物の差異を考えた場合、言語を使用するかどうかという点はひとつの基準になる。

もし言語操作がヒトに特有の機能だとすれば、ヒトとヒト以外の生物の認知上の差異のひとつはそこにある。

 ヒトにだけできること

上で、ヒトとヒト以外の生物の差異は言語を使うかどうかという点にあるということを書いたが、実はこの表現は精確ではない。

コミュニケーション手段という意味で言えば、言語を使う生物はヒト以外にも存在する。

鳥も、魚も、アリやミツバチだってコミュニケーションを取り合っている。

そういう意味で言えば、言語を使うのはヒトだけじゃない。

「生物のなかで言語を使うのはヒトだけだ」と言った場合の言語とは、そういう、コミュニケーション手段としての言語ではない。

存在しないものを表現する手段としての言語だ。

言語とは?

言語というのは、シンボル操作のことだ。

シンボルというのは、意味するものと意味されるものが異なるもののことだ。

たとえば、「りんご」という音声は物体としてのリンゴを指しているが、リンゴではない。

加えて言うなら、「りんご」という音声は物体としてのリンゴを必ず表現するわけではなく、ある特定の文化的なコンテクストのなかで語られた場合、それは「罪」やら「知恵」やらを意味したりする。

言語とは、そういう適当でいい加減な体系をもつもののことだ。

意味するものと意味されるものとの間の関連が厳格に規定されているわけではなく、ひどく曖昧なもの。

そのためAという音声でAもBもCもDも、好きなものを好きなように表現できてしまうもの。

そういう適当で自由な体系をもった表現方法を言語と呼ぶ。

言語はよく恣意的という形容詞で表現されるが、言語は確かに恣意的と評価されるのに十分なだけ、確定的なところがなく柔軟だ。

そしてその柔軟さゆえに、言語は架空の対象を表現することもできてしまう。

そして、そうした表現手段はヒトにしかない。

言語の特徴

ちょっと前に読んだ本にそれに関連することが書かれていたので、ここからはそれを参考にしながら話を進めたい。

かなり爆発的に売れた本なので、読んだことがある人も多いと思う。

ユヴァル・ノア・ハラリという人の書いた、『サピエンス全史』という本だ。

すごく大雑把にまとめると、ヒトが特徴的にもつ性質とは虚構を想定する能力であり、その能力の結果、人類は今あるような文化を発展させえた、というのが、『サピエンス全史』の趣旨になる。

この「虚構を想定する能力」というのが、ヒトだけがもつ言語の特性と関連している。

上で触れたが、ヒトの言語(われわれが普段使っている言葉)は、Aという音声で対象Aを表現できるだけではなく、Aという音声で対象Bを表現することもできる。

たとえば、とても楽しい状況で「とても楽しい」と言うことで「とても楽しい」という気分を表現できるし、とても退屈な状況で「とても楽しい」と言うことで「とてもつまらない」ことを表現することもできる。

どちらも、発せられた音声は「とても楽しい」というものだ。

けれど、一方はまぎれもなく楽しい状況(たとえばM-1勝戦を見ている時)に発せられた言葉で、もう一方はどう考えても楽しいなんてことはありえない状況(たとえば朝礼で校長の長話を聞いている最中)に発せられた言葉だったとすれば、それは当然別の意味に解釈される。

前者はストレートな感情表現で、後者は皮肉以外の何ものでもない。

ヒトの言語体系では、同一の文章をそれが使われた状況に応じて意味を使い分けることは不思議ではないし、不自然なことではまったくない。

むしろ、状況に応じて解釈を変えないとすれば、そっちの方が不自然だ。

けれど、この「状況によって解釈を変える」という行為は、生物全体から見ると異端で、これ以上ないくらいに不自然な行為になる。

実際、それをしているのはヒトだけなのだ。

ヒト以外の生物にとっては「現実」だけが唯一であり、「たとえば」とか「仮に」というものは存在しない。

 

何だか中途半端なところで終わるが、今日はここまで。

ワーキングメモリはいかにして意識的なふるまいを生じさせるのか?

 

少し長くなりそうな気がする。

何回かに分けて書きたいと思う。

はじめに

とりあえず、「ワーキングメモリは意識を生じさせる」という前提で話を始めているけれど、その前提は本当に正しいのかとか、そもそも「ワーキングメモリ」というのは何なのかとか、いろいろ疑問に思われることはあると思う。

まずはそうした諸々の疑問を愚直に潰していこうと思う。

ワーキングメモリ?

ワーキングメモリというのは、情報を一時的にプールしておくバッファ領域のことだ。

好きなことを自由に書き込むことができるノートをイメージしてもらうとよい。

ただし、好きなだけ書き込めるわけではなく、一定の容量がある。

それに、一定の時間が経つと書いた内容は自然に消えてしまう。

あくまで、何かをするのに必要な内容を一時的に保存しておくためのメモ帳だ。

そういう情報の一時的な保存領域が、ヒトの脳のなかにある。

電話番号程度の桁数の数字なら一時的に覚えていられるのは、これがあるおかげだ。

それが意識と何の関係があるというのだ?

ワーキングメモリは意識を生じさせるとする説がある。

 実は結構古くからあって、突然降って湧いてきた説ではない。

ただ、一見するとかなり飛躍的に思える説ではある。

ワーキングメモリは情報を一時的に書いておくことができるメモ帳のようなものだとして、それと意識との関係がよくわからない、というか、そのままだとそのふたつのものの関連がまったく見えてこないからだ。

メモ帳から意識が生まれる?

それならいま机に転がっているメモ帳も意識をもっているのか?

それともまだ他に何かの条件が必要で、そうした条件が整えばこのノートも意識をもつようになったりするのだろうか?

そんなことはありえない。

ノートはノートだ。

あたりまえだけれど。

それではワーキングメモリが意識を生むというのはいったいどういうことなのか?

今回の話はその謎の関係の説明になる。

 

とりあえず、今日のところはここまで。