ワーキングメモリはいかにして意識的なふるまいを生じさせるのか?2
前回の続き。
意識とは何か?
意識とは何かという問題について、真っ向から答えようとすると大変なので今はしない。
それならそんな問題提起をするなと言われそうだが、答えるのが大変な問題であっても、提起しないというわけにはいかない。
それについて話そうと思っているのだから、それが何であるか正しく答えることはできなくてもそれを定義しておく必要はある。
意識とは何か?
ここではそれを、「意識的なふるまいをするものがもつ特性」と定義しておこうと思う。
「意識とは意識的なふるまいをするものがもつ何かである」という定義は完全に循環論法的で、そんな定義をすることには何の意味もないように思える。
けれど、そう定義することは完全に無駄な行為というわけでもない。
少なくともそう宣言することで、「意識的なふるまい」を意識の徴標として取り扱うことができるようになるからだ。
問題を先送りすることができるうえに問題解決の手がかりも得られるなら、無駄な行為も無駄ではない。
意識があるものと意識がないもの
ヒトだけが意識をもつとする。
もしかしたらヒト以外の生物も意識をもっているかも知れないが、とりあえずここではそう考える。
意識とはヒトだけがもつ固有の特性である、と。
もしそうだとすれば、意識はヒトとヒト以外の生物の差異として抽出されることになる。
それでは、その差異とは何か?
ヒトと、ヒト以外の生物は何が違うのか?
差異は星の数ほどあって、数え上げていくとキリがないが、意識は認知に作用する何かであるか、あるいは認知の特殊な様態なので、認知周りに限って考えることにする。
ヒトの認知とヒト以外の生物の認知の何が違うのか?
ヒトとヒト以外の生物の違いのひとつとしてよく挙げられる特徴のひとつに、「言語の使用」というものがある。
認知絡みでのヒトとそれ以外の生物の差異を考えた場合、言語を使用するかどうかという点はひとつの基準になる。
もし言語操作がヒトに特有の機能だとすれば、ヒトとヒト以外の生物の認知上の差異のひとつはそこにある。
ヒトにだけできること
上で、ヒトとヒト以外の生物の差異は言語を使うかどうかという点にあるということを書いたが、実はこの表現は精確ではない。
コミュニケーション手段という意味で言えば、言語を使う生物はヒト以外にも存在する。
鳥も、魚も、アリやミツバチだってコミュニケーションを取り合っている。
そういう意味で言えば、言語を使うのはヒトだけじゃない。
「生物のなかで言語を使うのはヒトだけだ」と言った場合の言語とは、そういう、コミュニケーション手段としての言語ではない。
存在しないものを表現する手段としての言語だ。
言語とは?
言語というのは、シンボル操作のことだ。
シンボルというのは、意味するものと意味されるものが異なるもののことだ。
たとえば、「りんご」という音声は物体としてのリンゴを指しているが、リンゴではない。
加えて言うなら、「りんご」という音声は物体としてのリンゴを必ず表現するわけではなく、ある特定の文化的なコンテクストのなかで語られた場合、それは「罪」やら「知恵」やらを意味したりする。
言語とは、そういう適当でいい加減な体系をもつもののことだ。
意味するものと意味されるものとの間の関連が厳格に規定されているわけではなく、ひどく曖昧なもの。
そのためAという音声でAもBもCもDも、好きなものを好きなように表現できてしまうもの。
そういう適当で自由な体系をもった表現方法を言語と呼ぶ。
言語はよく恣意的という形容詞で表現されるが、言語は確かに恣意的と評価されるのに十分なだけ、確定的なところがなく柔軟だ。
そしてその柔軟さゆえに、言語は架空の対象を表現することもできてしまう。
そして、そうした表現手段はヒトにしかない。
言語の特徴
ちょっと前に読んだ本にそれに関連することが書かれていたので、ここからはそれを参考にしながら話を進めたい。
かなり爆発的に売れた本なので、読んだことがある人も多いと思う。
ユヴァル・ノア・ハラリという人の書いた、『サピエンス全史』という本だ。
すごく大雑把にまとめると、ヒトが特徴的にもつ性質とは虚構を想定する能力であり、その能力の結果、人類は今あるような文化を発展させえた、というのが、『サピエンス全史』の趣旨になる。
この「虚構を想定する能力」というのが、ヒトだけがもつ言語の特性と関連している。
上で触れたが、ヒトの言語(われわれが普段使っている言葉)は、Aという音声で対象Aを表現できるだけではなく、Aという音声で対象Bを表現することもできる。
たとえば、とても楽しい状況で「とても楽しい」と言うことで「とても楽しい」という気分を表現できるし、とても退屈な状況で「とても楽しい」と言うことで「とてもつまらない」ことを表現することもできる。
どちらも、発せられた音声は「とても楽しい」というものだ。
けれど、一方はまぎれもなく楽しい状況(たとえばM-1決勝戦を見ている時)に発せられた言葉で、もう一方はどう考えても楽しいなんてことはありえない状況(たとえば朝礼で校長の長話を聞いている最中)に発せられた言葉だったとすれば、それは当然別の意味に解釈される。
前者はストレートな感情表現で、後者は皮肉以外の何ものでもない。
ヒトの言語体系では、同一の文章をそれが使われた状況に応じて意味を使い分けることは不思議ではないし、不自然なことではまったくない。
むしろ、状況に応じて解釈を変えないとすれば、そっちの方が不自然だ。
けれど、この「状況によって解釈を変える」という行為は、生物全体から見ると異端で、これ以上ないくらいに不自然な行為になる。
実際、それをしているのはヒトだけなのだ。
ヒト以外の生物にとっては「現実」だけが唯一であり、「たとえば」とか「仮に」というものは存在しない。
何だか中途半端なところで終わるが、今日はここまで。