ワーキングメモリはいかにして意識的なふるまいを生じさせるのか?3
意識的であるかどうかをどうやって判断するか
「たとえ話」をするのは人間の特権だという話を前回した。
架空の何かを想定するのはヒトだけで、それ以外の生物には「仮に」という選択肢はない、と。
もしそうだとすれば、「たとえ話」ができるかどうかということが意識的であるかどうかを判断する基準になるはずだ。
ヒトはなぜたとえ話ができるのか?
当たり前すぎて普段は気にもしないが、実はたとえ話ができるということは当たり前のことではない。
生物のなかで、ヒトだけがそれをできる。
ヒトはどうしてたとえ話ができるのか?
われわれは普段、何気なく(ほとんど雰囲気で)たとえ話とたとえ話ではない話を使い分けている。
別に、「今からたとえ話を始めますよー」と断ってからたとえ話をしているわけではないし、「これは本当の話だけど」と、現実の話をする時にあえてそれを強調したりもしていない。
感覚的に架空と現実を区別している。
あまりに自然にそれをやり過ぎていて、会話を始める前からそれが作り話っぽいか本当の話っぽいかを判断していることに気づいていないだけだ。
けれど、どんな話の時にも無自覚的にその判断が先行してしているということが、実は意識的なふるまいの前提条件になっている。
会話をする時に、それに先立つこの判断が介在していなかったとすれば、皮肉も冗談も言えない(すべての言葉は額面どおりに捉えられてしまうことになる)。
激烈に短いが、今日はここまで。